UPDATE : 2001/11/30

 

「日本文化映画批判」 藤井 仁子(ふじい じんし)

著作権は藤井 仁子氏に属します。リンクは自由ですが、引用の範囲を超えた無断転用はご遠慮ください。
I 文化する映画――昭和十年代における文化映画の言説分析

文化について語ることは、いつもすでに反文化である。
――ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』

 ここでは「文化映画」について論じるが、以下の私の論述を「文化映画論」と呼ぶには、致命的ともとれる二つの不在がすぐさま看取されるだろう。第一の不在、それは論じようとしている当の対象たる「文化映画」という語の定義の不在であり、もうひとつは、この語の指示対象であるべき当のフィルム群の不在である。「文化映画」について論じながら、その語の定義を確定することを拒み、そのうえ一本の「文化映画」に視線を注ぐことすら回避しているとすれば、これは「文化映画論」以前の駄弁にすぎないのだろうか。
 むろん、答えは否である(願わくは)。私はこの不在を意図的に選びとった。なぜなら、文化映画とはなにかという問いそのものが罠だからである。やがて詳細があきらかにされるように、「文化映画」とは定義を確定しえないがゆえにそれについて無際限に語りつづけることのできる空虚な記号なのであり、そうであればこそ、それはさまざまな人間からそのたびごとに異なる機能を担わされつつ、昭和十年代の映画をめぐる言説空間にあまねく流通しえたのだ。つまり、「文化映画」自体が表象なのである。したがって、「文化映画」という語の積極的な定義づけを試みることは、文化映画がなによりもまず言説による不断の構築物であったという枢要な点を取り逃すことにつながり、それはすなわち、昭和十年代の文化映画の言説を反復することでしかない。またそのような定義を携えて無防備なままフィルムに赴くことは、単なる分類学で終わるだろう。いうまでもなく、分類学が可能になるのは事後的な地点からでしかなく、そこでも言説による不断の構築過程は取り逃されることになる。
 ゆえに、昭和十年代の文化映画の言説に向かうここでの私の方法は、徴候的(symptomatic)なものだといっていい。ジジェクによる簡便な整理を引くなら、「分析によって明らかにすべき『秘密』とは、形態(商品の形態、夢の形態)の後ろに隠されている内容などではなく、*形態そのものの『秘密』*である」(Zizek 1989=2000: 22[強調原文])のだ。致命的な不在とも見えたものは、そうした意図から選びとられた方法的な浅さだったのである1)
 なんら自然なものではなくなったそれら一群の言説は、われわれになにを語り、また*語りそこなう*ことになるだろうか。

言説の「倒錯」

 文化映画に見られる最大の特徴、それは先後関係の転倒にある。批評には批評される対象が先行し、法律には規制される対象が先行するのが当然であろう。だが文化映画において、これらいっさいの先後関係は転倒する。人々はいまだ見たこともない映画に関する理論を争って読み、立法者はまるで正体のつかめない映画の製作を奨励し、急きたてられた産業は誰も見たがらない映画をせっせと量産する。日本映画の昭和十年代は驚くべき倒錯のうちにある。
 知られるように、「文化映画」はドイツ語のkulturfilmからの翻訳語だとされている。つまり、UFA製作による一連の「教育映画」の名称から直訳したわけである。東和商事では、劇映画と別個の配給組織として昭和一〇年に「文化映画部」が設置されたが、この種の映画の需要はまだ少なかった。それまで「教育映画」と呼ばれもしたこれらの映画の名称を「文化映画」とあらためたのは、少しでも堅苦しいイメージを払拭するためだったのである。だがその効果もむなしく、やっと封切っても一年に五六館をまわる程度の成績だった(東和商事合資会社 1942: 12)。
 事情が一変するのは一九三七年の「支那事変」勃発後、ニュース映画に大量の観客がつめかけたことによる。今村太平(1941)によれば、この年の観客数は前年にくらべて一割あまり、四千万人も増加したという。いわばノンフィクション映画の興行価値が「発見」されたのだ。文化映画が「事変後」に活況を呈したという事実はきわめて重要だが、これについては後で述べる。
 文化映画が人々の耳目を集めた第二の要因として、Paul RothaのDocumentary Film(一九三五年)が、「ポール・ルータ」の『文化映画論』として一九三八年に第一芸文社から翻訳出版されたことがあげられる。同書は映画理論書としては異例の売り上げを記録し、絶大な影響力をふるったが、「ドキュメンタリー・フィルム」というまだ真新しかった言葉が翻訳者厚木たかによって「文化映画」へと置き換えられたことで、日本独自の問題構制も生じさせることになる。それについて詳述することは本稿の射程を超えているが2)、おさえておくべき要点は、この著作がイギリスのいわゆるドキュメンタリー運動と密接に結びついた理論書であったにもかかわらず、この時期までの日本には、こうしたイギリスの「ドキュメンタリー映画」が一本も輸入されていなかったという事実である。評論家津村秀夫(1940)がこの著作に激しい批判を加えたときも、英国製の「ドキュメンタリー映画」は数本が試写されたのみで、しかも津村はこれを見ていなかった。同じく評論家である岩崎昶も次のように書いている。

   僕は先日、ある機会にイギリスのを五本ばかし見ることを得た。それらはルータの著書などを通じてわれわれの想像してゐた優秀さは少しも持つてゐない。凡庸千万な作品揃ひで、恐らく良き代表的な選択でなかつたのであらうが、(中略)それにしても日本の文化映画論がルータの偏向を拡大再生産して誤謬に陥つてゐることは疑ひがない。(岩崎昶 1939: 40-41)

 こうした事情が文化映画の言説を決定的に倒錯させることになる。批評が批評される対象に先行し、批評の言葉はあきれるほどの抽象性を身におびるのだ3)
 文化映画が日本の映画市場にあまねく流通するに至った第三の要因は、前年に施行された映画法にもとづき、一九四〇年から強制上映が実施されたことである。しかし、「国民教育上有益ナル特定種類ノ映画」(第十五条)、あるいは「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スル映画(劇映画ヲ除ク)ニシテ文部大臣ノ認定シタルモノ」(施行細則第三十五条)といったあいまいな規定は、文化映画をめぐる混乱を助長しただけであったばかりか、強制上映に間にあわせるための粗製濫造を生んだ4)。実際、認定さえ取りつければ必ず上映される文化映画は(狭義においては文部大臣に認定されたものだけが「文化映画」と呼ばれた)、トーキー化以降の経営悪化に苦しんでいた弱小プロダクションにとっては救いの神であったに相違ない5)。こうして、「『まるで不良少年が一躍、やれ教育者、やれ文学者だ、やれ科学者だ、やれ国士だと乗り出してきたやうな』珍風景」(大宅 1940: 232)が現出したのだった。
 ただでさえ空虚な記号であった「文化映画」は、こうしていっそう悪性のインフレーションへと陥ってゆく。実際、この語は広義にとればある種の劇映画まで包摂しかねず、「教育映画」や「記録映画」、はたまた「科学映画」とどう異なるのかといえば、誰ひとり答えられる者などいなかった。当時のある記事から引用する。

    記録映画と呼ばれるものは非常に新しい歴史しか持たず、寧ろトーキイ以後の産物として考へられてゐる。実写映画といふものは音声を欠いた実景の連続で、それはサイレント映画に於ける概念であつて、今日実写映画といふ呼び方は殆んどないと言つていい。所謂文化映画が生んだ混乱に災ひされてゐるのであるが、兎に角、実写映画は音声を得たことによつて昇格して、記録映画に変貌してしまつたのである。(三田 1940: 149)

 なんとか混乱を解消したいという当人の意図とは裏腹に、これは事態をいっそう紛糾させているだけだ。
 誰もが「文化映画」について語るが、誰もその正確な意味を知らない。にもかかわらず、誰もがそれを問題にせずにはいられない。岩崎昶は、「文化映画論の最初の問題は、いつも文化映画とは何か? である」(岩崎昶 1939: 33)と書いているが、この「最初の問題」を皮切りに、言説空間のいたるところで、しまりのない口がとめどなく空疎な言葉を発信し、やけに軽い筆が厖大な紙面を無益な文字で埋めていくことになる。
 私は本章の表題を「皇紀二六〇〇年」に発表されたある雑誌記事からとったが(加藤 1940)、「文化する映画」というこの軽薄な語句こそは、この時期の言説の茫然とさせられるほかない抽象性を集約的に表現するものである。
 順序は前後するが、キネマ旬報社が主催する「文化映画コンクール」の広告がおごそかにこう宣告するとき、ファルスは頂点に達する。

    文化映画とは何んであるか、これに対する定義的明答は未だ与へられてゐないが既に常識として映画界にその種目的概念は認識されてゐる。此処に更めて「文化映画」なる名称自体の妥当性如何を、或ひはまたその包括し得る可能範囲に就て論ずることは既に形成されたその映画界の概念的認識を冒?する惧れあることを慮つて敢えて言及しない。(『キネマ旬報』六四一号[一九三八年四月一日]、一一六−一一七頁)

第一の機能――記録という「本質」
 しかし、どんなに空虚であったとしても、それが記号として流通する限りにおいて、「文化映画」はなんらかの結果=効果をともなったに違いない。「文化映画」という記号は、その空虚さゆえにさまざまな意味が自身に充填されることを許した。文化映画の言説は、どれほど空虚な繰り言に見えたとしても、やはり分析するに足る実定性をそなえているのである。
 これから、この記号が昭和十年代の映画をめぐる言説空間において果たした機能を四つに分けて見ていこうと思う。むろん、「文化映画」が担った機能はこの四つに尽きるものではないし、これら四つの機能はそれぞれ複雑にからまりあってもいる。もとより本章は、文化映画の言説分析としてはいまだ不充分なサーヴェイにとどまっているかもしれないが、それでもこうした分類に沿って見ていくことで、重要な論点をひととおりおさえることができるだろう。
 「文化映画」の第一の機能、それは記録映画の本質主義とでも呼びうるものに関係する。つまり、この時期になって、事実の記録こそが映画のそもそもの本質であるとする主張が活発になされるようになるのである。たとえば評論家の北川冬彦(1941: 68)は、「トーキーになつてから映画は、現実と接触せざるを得なくなつたのであつたが、思ひ切つて現実だけでやつて見ようと考へる映画人が多くなつてきたのである。それが記録映画の時代を現出しつつあるのである」と述べたうえで、「実写記録といふ方法は、映画そもそもの方法である」と書いている。
 この時期までに完了していたトーキーへの移行が、言説の水準において、事後的に因果論的な連続性へと回収された経緯についてはすでに論じたことがある(藤井 1999)。そこでも述べたように、こうした言説が前提としていたのは、音声をともなうようになったことで映画がいっそう「現実」に近づいたという物語であった6)。それが今、言説と市場の両方の水準で「文化映画」が氾濫するようになった結果、一種の本質主義にまで至るのだ。
 評論家飯島正によるその名も『映画の本質』は、トーキー時代を迎えたことを期に、演劇や文学などと比較しつつ映画の「本質」をあきらかにしようとした著作であるが、そこには次のような記述が見られる。

    ゾラに依つてはじめられた自然主義文学が最盛期を過ぎた頃、十九世紀末に到つて、その肩がはりをする他の報告的形式が現れたことは興味深い。
 即ち、文学にかはつて報告の任務を背負つたものは、一八九五年に発明され、直ちにその任務を遂行した映画である。(中略)
 リュミエエルに依つて作られた世界最初の映画は、「リオン市、リュミエエル工場の出口」と題する一巻の実写であつた。
 映画が実写に始まつたことは、実物をうつし、人にそれを知らせる、といふ映画の根本的な性質を、このとき決定したともいへる。
 これは、実物の動きをそのままに伝へるのであるから、報告といふ点にかけては、文学の遠く及ぶところではない。(飯島 1936: 53)

 飯島は、映画の起源にまでさかのぼることで、自然主義文学の正当な嫡子としてその「本質」を規定したばかりか、限定つきながら、映画を文学の上に位置づけてさえいる。十字屋映画部の桑野茂(1941)に至っては、文化映画が「映画本来の方法」を引き継いでいるのに対し、むしろ劇映画のほうがそこからはずれた「特殊」なものだとまでいっている。こうした主張が広く流通していたことは、岩崎昶がこの時点において、「文化映画のこの興隆の素因は、映画の『記録性』『実写性』の再認識にあるといふことについてはすでに定説がある」(岩崎昶 1939: 29)と述べていることからもあきらかであろう。
 このように主張することは、当然のことながら、そう主張する映画評論家自身の社会的地位を押し上げる。桑野のようなつくり手においてはいうまでもないだろう。とりわけ文化映画のつくり手が、総じて劇映画の人間よりも教育水準が高かったにもかかわらず、撮影所内でめぐまれない立場にあったことを考えるならば。いわばリアリズムの正当な嫡子の後見人として自らを位置づけること。これこそ、「文化映画」という記号が担った第一の機能だった。マルクスの言葉を借りるなら、「生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとするのである」(Marx 1852=1996: 7)。記録映画の本質主義とは、そのような衣装=意匠にほかならない7)
 しかし、事情はもう少し複雑である。なぜなら、現実につくられている文化映画の質は、一般的にいって、彼らの信用を高めてくれるほどには高くなかったからである。そこで彼らは過去から取り出してきた「本質」を、そのまま未来に向けて放り投げてみせる。そうしてできた軌跡が*あるべき*映画の歴史というわけだ。多くの批評家が文化映画を「来たるべき映画」として語り、飯島正が「文化映画は、現在より未来への希望にかかつてある」(飯島 1940b: 38)といっているのは、そうした歴史観にもとづいている。彼らはひ弱な皇子を後見しつつ、そのまた皇子がいつか偉大な帝として世に君臨する日を民衆に向かって約束するのである。
 この時期、映画評論家たちは、マスメディアの発達によって仕事の場を大きく広げていた。評論家筈見恒夫(1937: 50)は、一九三六年に「一般雑誌の映画雑誌化、近頃の如く甚だしいことはない。殆んどの雑誌が何々映画特輯号といふ肩書で発行される。映画特輯を出さない雑誌は、まるで時代遅れみたいな感を呈するのである」と書いている。直後につづけてこういう。「さうだ、正しく流行である、映画ジャーナリズムとは伝染病の如き流行である。尤も、伝染病と云つたつて、僕はこの風潮を責めようといふのではない。(僕自身、大いに此の流行のおかげで書かして戴き、稼がして戴いてゐるのだ。責めようなぞとは滅相もない。)」。まさしく彼ら職業評論家こそ、こうしたジャーナリズムの隆盛から最大の恩恵をこうむった人種にほかならなかった8)
 しかし、マスメディアの拡大とともに学者や評論家が書いたり発言したりする機会が増大したことは、他方で各自の専門領域が侵される危険も増大したということを意味する。そうした危機意識は、この時期になって登場した「局外批評」という言葉に表現されている。専門家ならざる人間によって書かれた批評を意味するこの言葉は、文芸批評の文脈で大宅壮一(1935)が使ったのが最初のようだが、すぐに映画批評の文脈でももちいられるようになった。たとえば、先に引用した筈見の文章も、「局外批評や、独断批評も、僕等として大いに歓迎する。しかし、間違つた資料に立つて映画を批判したり、認識不足な独断から出発する文章に対しては徹底的に排撃するつもりなのである」(筈見 1937: 60)という言葉で閉じられている。
 飯島正も次のようにいう。

    映画を毒するものは、むしろ[一般の観衆の]他にある。
 それは、映画を他の芸術の知識で律しようとする知識階級人である。発展途上にある映画の小さな過失――それは時として誠意ある冒険である――を取上げてとやかく云ひ、自分の社会的地位を利用して、言葉に重大さを持たせ、自分の意志を押し通すやうなことさへもする。(飯島 1936: 26)

 むろん、そのようにいう飯島自身も、ジャーナリズムの繁栄によって生まれた「知識階級人」のひとりだったのである。
 いずれにせよ、こうした事情を背景として、昭和十年代の職業的映画評論家たちが、自分たちの専門性を外部に向けて提示するよう迫られていたことがわかるだろう。津村秀夫(1941; 1943)や澤村勉(1940)の場合が典型だが、この時期の評論家のなかに、自らの仕事の意味を問いなおすような文章を発表している者のいることは、こうした文脈で捉えられなければならない。津村のように好きで映画評論家になったわけでない人間にとっては、こうした反省はいっそう深刻な意味をもっていただろう。また、上野耕三(『和具の海女』[一九四一年]など)や飯田心美のような実作の側へと移行した評論家も、まさにこうした文脈において、自分が口先だけの「知識階級人」ではないことを示そうとしたのだと考えられる。「文化映画」のように通俗的な劇映画よりも高い芸術的価値を有していると見なされ、しかも「国益」につながると国家が直々に認め、くわえてそのあいまいさゆえに批評家が絶えず定義づけてやらなければならない希薄な記号は、こうした言説的実践の賭金としてまことに申し分のないものだった。
 相川春喜は、一九四一年六月の時点でこう書いている。

    文化映画のやうに経験が若くて位置と任務が重要である場合には、この制作への生きたモメントとしての批評が理論的に凝結し、蓄積されてゆかないと、その新興性のゆゑに、かへつて歪められ、萎びた、発育不良なものとなる惧れがある。反対に文化映画こそその制作の全プロセスを通じて、厳しく且つ豊かな批評活動と、緊密に結びつかねばならない。(相川 1944: 9)

 ポール・ローサによる理論書も、それが「文化」の先進国たる英国に由来するものであったがゆえに、言説的実践の武器として流用されたのだ。亀井文夫はこの本を指して、「われわれの孤独な仕事の仕方に自信を与へた」といい、「海の彼方に友あるを知つた心強さ」を感じたと述べているが(亀井他 1940: 19)、撮影所内で軽んじられていた文化映画のつくり手たちにとって、これは偽らざる実感であっただろう。そう考えるなら、厚木たかがその表題を『文化映画論』と翻訳したことにはしたたかな計算がふくまれていたかもしれない(この日本語題が彼女自身の発案によるものではないにしても)。しかも彼女は、外来思想の「紹介者」となることが多大な利益を約束するこの国で、確かに充分な分け前を手にしたのだ9)
 同時に、誤訳に満ちた厚木訳は、文化映画関係者の内部にも紛争を引き起こした(Nornes 1999)。たとえば津村秀夫は、ことさらに次のような書き方をする。

    原書を参照して良かつたと思つたのは例へばポール・ルータの使つてゐる色色のドキュメンタリイを定義する重要な言葉、「現実の創造的劇化や社会分析の表現」の現実の創造的劇化といふ曖昧な言葉も原書ではThe creative dramatisation of actualityである事がわかると色色手掛かりも出来るといつた塩梅である。realityでなくactualityになつてゐる。(津村 1940: 113)

 このようにいうことは、つまり自分に外国語の文献を原書で読みこなす能力のあることを世間に向けて示すことである。誤訳を指摘し、代わりの訳を差し出すことで、彼らは共同体内部での自身の優位を示すことができた。「ポール・ルータ」は、そのための手段としても流用されたのだった10)

第二の機能――転向者の「科学」

 「文化映画」という記号が担った第二の機能は、「科学」との関連によってあきらかにされる。文化映画を論じる文章において、しばしば寺田寅彦(1997 [1932]: 220)の「映画は芸術と科学との結婚によつて生れた麒麟児である」という言葉が引用されているが(ただし、ここでの「科学」は映画を可能にした技術以上のものを意味していない)、当時文化映画において「芸術」と「科学」がいかなる関係を取り結んでいるかは批評家たちの論議の的だった。UFAのkulturfilmが主として自然科学を主題として扱っていたせいもあり、「文化映画」と「科学映画」を同義語と見なしてよいものかどうかが真剣に論議されたことも多い11)。しかし、そうした議論はほとんどがリアリズムと科学とを混同しているにすぎず、その内容を追うことは本稿の関心外である。ここで重要なのは、もうひとつの記号である「科学」がおびていた負荷との関連で、「文化映画」という記号がどのような機能を担ったか、そのことに尽きる。
 有り体にいえば、「文化」が当時の流行語であったように(のちに詳述する)、「科学」もまた流行語であったにすぎない12)。たとえば、一九四〇年七月に成立した第二次近衛内閣のひとつの目玉は、民間から抜擢された橋田邦彦の文部大臣への就任だった。基本国策要綱に「教学の刷新」とならんで「科学の画期的振興」を盛り込んでいた第二次近衛内閣にとって、この一高校長もつとめた生理学者の登用は、国民にアピールする手段としては充分なものだった(だが、この緊迫した時期になんと抽象的な「国策」であることか)。
 むろん「科学」という語が政治的なスローガンと化する以前から、大衆のあいだでも「科学」への関心は充分に高まっていた。すでに『科学知識』などの雑誌を中心にポピュラー・サイエンス(当時のいわゆる「通俗科学」)は広く浸透しており、さらに一九二七年の岩波文庫につづき一九三八年に創刊された岩波新書を通じて、最新の科学的知見がインテリ層にもたらされていた。映画批評の文中に、ハイゼンベルクやアインシュタインがなにくわぬ顔で登場する時代がすでに到来していたのである(桑野 1941; 今村 1941)。ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』(一九三九年)や西田幾多郎の『日本文化の問題』(一九四〇年)のような本ですら、岩波新書によって当時のインテリ層に広く読まれていたという事実はきわめて重要であろう。文化映画があてにしたのもそうした観客層にほかならなかった。「矢張り狙ひは岩波新書だね」という筈見恒夫の発言は(溝口他 1941: 38)、そのような文脈で捉えられる必要がある。
 しかし、「文化映画」という記号の流通における「科学」との関係を考えるうえで、ポピュラー・サイエンスの文脈以上に重要なのは、昭和十年以前において、この語がマルクス主義の文脈でもちいられることが多かったという事実であろう。この文脈で「科学的」といえば、それは(空想的社会主義に対するものとしての)科学的社会主義を意味したのである。
 いうまでもなく、文化映画に関わったつくり手のなかには、マルクス主義からの転向者が多数ふくまれていた。厚木たかや東宝第二製作部(文化映画部)部長の松崎啓次、さらに批評家の岩崎昶、上野耕三、佐々元十らは、かつて日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に関わった者たちである。また、文化映画の代表的な製作会社である芸術映画社を興し、雑誌『文化映画研究』を刊行した大村英之助に至っては、東大在学中に入党し、その後幾度も検挙された経歴をもつ筋金入りの活動家であったし、技術論を専門とし、のちに『文化映画論』を著す相川春喜は、戸坂潤の唯物論研究会のメンバーだった(岩崎稔 1995: 189-190)。
 こうして見ると、文化映画が転向したマルクス主義者にとっての一大避難所になっていたことがわかるだろう。松崎啓次(1938)は、自分は「文化映画」などという言葉は嫌いだ、ただいい映画を撮りたいだけなのだと何度もくり返しつつ、次のように書いている。「若い日、ぼくは科学を学んだ。史的唯物論に傾倒した。そして、ドキュメンタル映画を愛した。その結果か如何か、ぼくの映画観は、多くの先輩達や僕の周囲の人達のそれと、多少異なつたものになつてしまつた」。そうした環境のなかで探しあてた「別の世界」が文化映画だったのである。
 こうして、ある者たちは、すでに政治的なスローガンとして権力側に横領されていた「科学」という語を隠れ蓑として、「文化映画」を語る言説のなかに、当時としてはかなりきわどい発言を滑り込ませることさえできた。文化映画は「科学の映画」でなければならないともっとも強固に主張した久保田辰雄(1940: 155)は、『資本論』におけるマルクスの「科学的」態度を見ならえとまでいっている。このような主張が伏字にもならず出版されているというのは、出版年からはほとんど信じがたいことであろう。
 同時に、より明白に「国策」に沿うようになった者にとって、「科学」は転向のやましさを軽減してくれる記号として見いだされた。たとえば、傾向映画出身ですでに国策映画を撮るようになっていた木村荘十二は、大日本映画協会の教則本のなかで執拗に「科学」を強調している。映画法における文化映画の規定に対する彼のコメントは次のようなものだ。

    要之、正しい現実の観方によつて、国民の生活文化の向上に資する知的映画が文化映画であると謂ふことが出来る。この客観的真実の認識、表現は科学の本質、目的、価値であるのだから、ここに言はれる文化映画も先づ科学と結合した映画でなければならないと云ふ考へ方に一致する訳である。(木村 1940: 289)

 むろん、ここで「科学」の意味は変わってしまっているのだが、それがなおかつてと同じ言葉であることは、当人にとっては重要な意味をもったに違いない。

第三の機能――「普遍性」の媒介

 「科学」との結びつきから「文化映画」にもうひとつの機能が派生する。それは「特殊」と「一般」の回路に関わるものだ。
 早稲田大学映画科学研究会の副会長だった吉江喬松は、文芸におけるリアリズムを「科学と文学との接合」と捉えたうえで、その延長線上に、科学と文芸とが不可分に結合したものとして映画を位置づけようと図っているが、つづけてこのように書いている。

    但し科学は飽まで普遍性を生命とする。文芸は特殊性に立脚する。その普遍性がいかに特殊化せらるるか、その特殊性がいかに普遍化せらるるか、そこに映画科学が同時に映画芸術が現在の階梯に於てその項点を示し得らるるのである。(吉江 1937)

 このように、特殊な対象を扱いながらもそれをある「普遍性」へと媒介する機能が文化映画に期待されたのである。
 桑野茂(1941)は、哲学者田邊元の『最近の自然科学』(一九一五年)を援用しながら、「記録映画」(「文化」という流行語への反発から彼はこの語を使う)における表現を「抽象」と「具体化」に見ている。個別特殊な事実から普遍的な法則を引き出すことを「抽象」ないし「帰納」と呼び、その真偽を再び事実に即して検証することを「具体化」ないし「演繹」と呼んでいるのだが、これを映画の文脈に置きなおすなら、ある特定の町工場を撮影することは「日本経済の歪み」という「普遍」にまで到達しなければならず、またそのように引き出された「普遍的な」法則が真であるとすれば、その撮影素材はおのずからすぐれた作品を構成することになるだろうというのである。
 文化映画は個別的な事象の背後にある「普遍的な」法則を描くべきだとする主張はこの時期に多く見られるもので、たとえば芸術映画社の石本統吉も、劇映画が個人を通してひとつのストーリーをあらわすのに対し、文化映画は個人ではなく「一般、つまり、社会」を描くことによってひとつの「イデア」をあらわすといっている(石本他 1941: 49)。
 だが、このように映画作法へと適用されるとき、自然科学における「普遍性」は、ある共同体の内部でのみ通用する「一般性」へと変化してしまわざるをえない13)。事実、緻密に論を展開しうる知性の持ち主である桑野(1941: 97)でさえ、「『土と兵隊』が、高い芸術的作品となり得た限り、火野葦平の戦争への認識が正しいことが験証されたのである」などと述べることで、この論理のいかがわしさを露呈させてしまっている。
 ある種の文化映画は、まさしく個人という「特殊性」を国家や民族という「一般性」へと媒介する役割を果たしたわけだが、そうした論理は、すでに文化映画の言説のなかに胚胎されていたのである14)

第四の機能――現実の「否認」
 「文化映画」の最後の機能は、この語の一部をなしている「文化」に関わる。「文化」という言葉は今や「文化住宅」から「文化サルマタ」に至るまでなんにでも濫用されるようになってしまったと嘆く飯島正(1940a)は、『大言海』から「俗ニ、西洋風ナルコト、又新シガルコト」という定義を引用している。さらに飯島は、「文化」がドイツ語kulturからの翻訳語である以上、その原義「耕作、農業」が暗示する「国土的、民族的な意味」を内包するはずだともしている。ここで問題なのは、むろん語源学的な探求などではなく、飯島自身が「文化」という語にこのような負荷をおびさせようとしている点にほかならない。
 大政翼賛会の文化部長をつとめた岸田國士(1991 [1941]: 255)の場合はさらに興味ぶかい。「文化とはどういふことか」という文章のなかで、岸田は「私の感じから云ひますと、文化住宅とか、文化何々とかいわれる場合の『文化』の意味は、幾分趣味的であつたり、それから便利重宝であつたり、更に安直で見つきがいい、といふやうな、まあ、ざつとそんな意味を引つくるめて文化的といつてゐるやうに思ひます」と述べているのだが、ここで岸田があげている「文化」の三つの意味は、初出では「幾分西洋的」「便利」「日本の今までの習慣に対していくらか革新的」となっていたのである(同書399頁の後記参照)。この改変の意図はむろん想像するしかないが、「国民文化」の発揚を謳うべき大政翼賛会の文化部長として、この語から「西洋」にまつわるニュアンスを意図的に取り除いたということは充分に考えられる。後には「国土的、民族的な意味」が残るというわけだ。序でふれた西川長夫(1995; 2001 [1992])が述べていたように、「文化」とは国民統合のためのイデオロギーにほかならない。
 同じような消去の例は文化映画の言説自体においても見られる。この時期、日本人に「記録映画」の芸術的価値を教えた映画として必ず引きあいに出されるのはソヴィエト映画『トゥルクシブ』(一九三〇年日本公開)だが、奇妙なことに、それ以前に公開されて一部の注目を集めたはずの『チャング』(一九二七年日本公開)のようなアメリカ映画は、ろくに名前すらあげられないのである。これはどうしたことか。
 私はここで、「文化映画」の第四の機能を、フロイトの概念を借りて「現実の否認」と呼びたいと思う。「否認(Verleugnung)」とは、「特定の機制の助けによって現実を拒否し、自分に対して何一つ禁止を加えたりしない」ことだが、他方では、「同時に現実の危険を承認し、現実への不安を苦痛な症状として受け入れた後、それを防衛」するような機制をも発動させる。むろん「このような解決は、自我の分裂Ichspaltungという犠牲によって達せられるもので、この分裂は決してふたたび癒えることがなく、むしろ時とともに拡大されてゆく」ことになる(Freud 1940=1983: 153)。
 文化映画の言説は、一方で現実を否認する。ここで「現実」とは、つまるところ「アメリカ」――事変ののち、日を追って致命的な対立が避けえなくなりつつあるその相手のことである。文化映画が「事変後」において隆盛をきわめたという事実を思い出そう。事変後の輸入制限によって日本映画界から次第に外国映画、とりわけアメリカ映画が姿を消してゆくなかで15)、人々は「西洋」のゆかしい薫りにすがり、鉄と火薬のにおいを「否認」したのだ。むろん、この「西洋」とは表象にすぎない。考えてみれば、ドイツ語から翻訳された呼び名をもち、十九世紀西欧のリアリズムの正当な嫡子として位置づけられ、ハリウッド製の「俗悪な」映画よりもはるか上位に置かれ、さらにマルクス主義的なふくみをもつ「科学」と結びつけて語られ、あげくにイギリスから輸入された理論に支えられているとすれば、そこで消されているものが「アメリカ」なのはあまりにあきらかではないか。
 だが文化映画の言説は、「同時に現実の危険を承認」する。なぜなら、「アメリカ」のプレゼンスが隠れもなく顕在化するのもまた映画においてであるからだ。それは憂し世に背を向けたはずの『東綺譚』の荷風(1994 [1937])すらが気にしないではいられなかったなにものかであり、抽象的な思弁に終始する「近代の超克」の参加者のなかで映画評論家津村秀夫(1979 [1942])だけが問題化しえたなにものかである16)
 「日本回帰」後の萩原朔太郎は次のように述べている。

    今の日本にもし「二十世紀」があるとすれば、それはアメリカの活動映画を真似た生活の外貌でしかない。そしてこの意味の二十世紀を最もよく知つてるのは、文学者やインテリの仲間でなく、無邪気なモダンガールやモダンボーイの連中なのだ。(萩原 1987b [1936]: 463)

 もはや「アメリカ」は日本社会を決定的に変容させてしまっており、今さらそれを「本来の」姿に戻すことなどできない。日本回帰論者が「回帰」したのは、そうした不気味な(unheimlich)「家郷」であった。

    だがその[「西洋の図」という]蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し廻つて、結局やはり祖国の日本より外にない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、電車を走らし、至る所に俗悪なビルヂングを建立して居るのである。(萩原 1987c [1937]: 487)

 文芸評論家浅野晃はいう。

    アメリカがどういふ形でわれわれに影響を及ぼしたかを考へて見るには、映画によるそれを考へて見るのがいちばん早道でもあり正当でもある。映画はアメリカが輸出した第一流の商品の一つであるが、そこにはフオードの自動車よりはもつと濃厚なアメリカニズムが含蓄されてゐる。アメリカニズムが映画といふ形で侵入して来たといふその形そのものがいはばすでにアメリカ的であると言へる。(浅野 1941: 24)

 ここでの浅野の議論が興味ぶかいのは、そもそも日本の映画市場を可能にしたのはアメリカ映画だと認めているからである。アメリカ映画によって開拓されなければ日本の映画市場はなかった。黒船の来航がなければ日本の近代化がなかったように。そればかりか、大正期にインテリゲンチャを形成したのも映画だったと彼はいう。「映画大衆の中核を形成するものとして始めて大衆としてのインテリゲンチアが出現し、その地盤の上に立つて綜合雑誌風の独特なジヤーナリズムが成立することが出来たのである」(浅野 1941: 25)。浅野は、自分のような職業が成立しうるのはそもそも「映画」、*つまりは*「アメリカ」のおかげだと知っている。この「現実」だけは「否認」しえないものとして残るだろう。それこそが現在の自分をあらしめているのだから。
 こうして文化映画の言説は、一方で「アメリカ」(あるいは、同じことだが「アメリカ映画」)を否認しつつも、他方で同時にそれを「苦痛な症状として受け入れ」、絶えず問題化することを強いられるのである。「分裂」の度は深まってゆく17)。そして、*われわれ*はいまだこの問題からすっかり解放されたわけではない。

【後記】
 本章は、『映像学』66号(2001年),5-22頁に独立して掲載された同名論文に加筆したものである。
 引用文の表記については、旧字体は一部の人名を除いてそのすべてを、旧仮名づかいは適宜その一部を書きかえた。また資料の閲覧にあたっては、京都府京都文化博物館映像資料室ならびに東映京都スタジオ映画資料室の方々から多大な御厚意をたまわった。記して感謝する。


1)こうした方法論について、ジェロー(1997: 36)はフーコーの『知の考古学』を援用しつつ、「映画に関する歴史を語るには、その対象である『映画』を『光の最初の縁(へり)に何かの妨げによって留めおかれたものとして、あらかじめ自己自身に先立って存在する』物、つまり言説に先立って存在し、言説による発見を待つ隠れた『物』ではなく、あくまでも言説の中でしか存在しない対象として扱わねばならない」と述べている。同様の方法的自覚からなされた言説分析の例として中村(2000)、藤木(1999)も参照されたい。また、より直接的に文化映画の言説を扱ったものとしては、北小路(2000)の論考が本論に先駆けて発表されている。言説分析としてはあまりに手薄だが、その先駆性は評価されなければならない。

2)これについてはNornes(1999)にくわしい。

3)近年のジャンル研究は、ジャンルというものを言説によって不断につくり変えられるものと見なすことにより、新たな成果を産んでいる(Altman[1999]など)。そのような立場から見てとりわけ注目されるのは、言説において事後的に見いだされたフィルム・ノワールという「ジャンル」であるが(さしあたり、中村[2000]を参照のこと)、このような知見をふまえてもなお、文化映画の言説における倒錯ぶりは異様である。文化映画を一概に「ジャンル」と呼ぶことへの躊躇は、これに由来している。

4)文化映画の認定事務は一九三九年一〇月一日に開始されたが、申請数は翌年の六月二八日までに三七四七本におよび、うち三四〇三本が文化映画の認定を受けた(文化日本社 1940: 65)。

5)昭和九年版の『映画年鑑』の巻頭言には、学校の取り締まり強化によって減少した児童観客の吸引策として、「映画国策の樹立に伴ふ文化映画の強制上映の如き」が大いに歓迎されなければならぬと早くも記載されている(岩本・牧野監修 1994 [1934]: 26)。

6)こうした主張の例はいくらでもあげることができるが、以下のものなどその典型である。「こんな単純な言ひ方は正しくないが、トーキイになつたことによつて、映画が現実に近付いたことは否定できない事実である。口が動くだけで声の聞けないサイレントから、声は勿論のこと、微妙な音までキャッチするトーキイになつたことは、不自然な映画が非常に自然になつたことを意味する」(三田 1940: 149-150)。

7)後述する「日本回帰」後の萩原朔太郎も、詩人としての自身の地位を正当化するためにいわば「過去の亡霊」を呼び出し、しかも詩こそがかつての日本文化にあっては指導的な役割を担っていたのだとする「本質主義」をとっている。「日本の詩の歴史といふものは、詳しく言へば元禄の芭蕉、大ざつぱに云へば、江戸文化の初期を以て、全く終局してしまつたのである。なぜなら詩といふ文学は、*本来*高邁な貴族的精神を*本質*するものであるのに、徳川幕府とその文化とが、この貴族的高邁性を抑圧して民衆の覇気を去勢し、元禄以後の社会を、著るしく卑俗的に散文化してしまつたからである」(萩原 1987a [1936]: 214[強調引用者])。このように、歴史的な諸事情が交錯する危機的な地点(conjuncture)において過去に自身の「本質的な」姿を見いだそうとする言説の形式は、映画のみならず広く同時代的に見られるものである。

8)このことは大衆雑誌の誌面だけにとどまらない。たとえば、一九三六年前後には武蔵野館の支配人が発案した「名画の夜」が流行している。これは本興行の終了後、評論家の講演付きで『モロッコ』『未完成交響楽』などのヨーロッパの「名画」を一本立上映する催しであった。この催しは人気を博し、やがて浅草大勝館や地方の洋画館でも実施されている。このほかフラハティの『アラン』が一九三五年に日本公開された際には、輸入元の東和は、飯島正によるパット・アレンの撮影記録の邦訳出版と提携するという「メディア・ミックス」の戦略を打ち出し、学生・知識層など「高度の観客」を狙うことで二週続映のヒットを飛ばした(東和商事合資会社 1942: 87, 61-62)。

9)戦時期の厚木たかの活動については厚木(1991)、堀(2001)にくわしい。

10)文化映画関係者のなかで、ほとんど唯一「文化映画」という記号から距離をとっていたように見えるのが亀井文夫である。彼は「記録映画」にこだわったが、しかし、まさにそのような態度をとることによって、自分を周囲のつくり手よりも一段高いところに置こうとしている気配が感じられなくもない。たとえば、自分の映画が「ポール・ルーター」とはなんの関係もないと執拗に言い張る亀井の口調に注意されたい(亀井他 1940: 19)。

11)木々高太郎(1939)によると、「科学映画」という名称自体はH・G・ウェルズ原作の映画(おそらくは『来るべき世界』[一九三六年日本公開])公開時に若干使われた程度で、彼がこの記事を書いている時点では、まだ一般的な呼称ではなかったようだ。

12)理学博士竹内時男(1940: 54)は、「科学精神といふ語を最初の頃或は最初に使つた者は恐らく自分であらう。科学的教養といふ語をしきりに叫んだのも、自分が初めてであらう」と述べている。この主張の真偽はともかくとして、少なくともここからはっきりとうかがえることは、このように主張することが充分な意味をもつほどに、「科学」という記号の価値がこの時期高騰していたということである。

13)ドゥルーズ=柄谷行人による「普遍性(universality)」と「一般性(generality)」の区別を参照している(柄谷 1993 [1989]: 303-326)。

14)それ自体は精緻な哲学的議論である田邊元の「種の論理」が、ごく通俗的にはこのような「論理」で理解されたことは周知のとおりである。また、火野葦平の「兵隊三部作」における語りを分析した成田龍一(2001)も、そこに個を主張することがそのまま一般に回収されてしまうような回路を見いだしている(第二章)。このような「論理」の構造が、個人と国家、さらに世界との関係を思考するように強いられたこの時期の思潮に基本的な枠組みを提供していることがうかがえよう。時代は下るが、土本典昭の作品に「特殊」と「一般」の回路に回収しえない「単独性(singularity)」を見いだす長谷正人(2000: 82-89)の論考「ドキュメンタリー映画における単独性」は、こうした「論理」への批判として読むことができる。

15)田中純一郎(1976: 65-66)によれば、外国映画の輸入制限により、昭和一三年度の公開映画は前年度の二九五本に対して半数以下の一四四本にまで激減した。なかでも大量に減少したのがアメリカ映画である。

  一二年 一三年
パラマウント 46本 10本
コロムビア 39 20
メトロ 31 16
ワーナー 31 7
RKO 21 18
ユニヴァーサル 20 6
フォックス 17 9
ユナイテッド 17 8


これにくわえ、検閲の強化も国内の映画市場からアメリカ映画をいっそう遠ざけることになった(田中 1976: 75)。

16)「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない」と書き起こされる『東綺譚』は、せめて「人が何の話をしているのかというくらいの事は分るようにして置きたいと思って」、浅草の活動小屋の看板を眺めて歩く場面からはじまっている。また、「近代の超克」において津村秀夫が占めている特殊な位置について、柄谷行人(1994: 119)は次のように述べている。「ところで、この会議においてやや異色なのは、映画評論家の津村秀夫の発言です。彼は、アメリカニズムを最大の脅威と見ています。津村が、他の人々と違っているのは、映画をやっていたからです。《映画はいふまでもなく近代の終焉と共に始つた芸術形式である》。つまり、映画そのものにポストモダンなものがあるということです。そして、それはテクノロジーの問題と切り離せないものです」。

17)このようにいったからといって、「自我」を「分裂」させるような特定の個人や集団を想定しているわけではまったくない。それを「作者」と呼ぶことができるにせよ、それは「言説の集合原理としての、それらの意味作用の統一体としての、それらの一貫性の中心としての、作者」である(Foucault 1971=1981: 28)。

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